百年、いや二百年もの昔の民家が今もって生き続けながら、なお余力のあるその生命力には、ただ恐れ入るばかりだ。そしてその魅力も決しておとろえていない。いや、年と共に増すように思われる。
それに比較して、昨今のものは、その生命力において、又、魅力においても大変にひ弱で、はかない夢のようなものに思えてならない。
その原因を考えてみよう。
昔の民家では、その資材を遠いところから運んで使用することはなかったはずだ。ましてや、違った国の材料を使用することなど考えられもしなかった。木材に一例をとれば、木材は、育った場所で使用されることが、最も特性が発揮され又、耐久力も発揮されることになる。昔の民家が身近なところの資材によって造られ、昨今のものは遠いところのものをごっちゃに使用されていることが耐久力に関係があると思えてならない。
家の建てられるどの場所も、それぞれ違った風土をもっている。東京と松本では、その風土には大変な違いがあるはずだ。昔はそれぞれの風土の中で生活の知恵が生かされて、風土に合った家が造られ違った構造、違った構法が出き上がっているのだ。さらに大きく見れば、日本には日本の風土に適した日本独特の構造が生れたのだった。昨今のように、日本の中央の考え方で地方のものも造られるということは、いかがなものだろうか。風土に合わせ適した造り方がなされないことが、耐久力を低下させ、住みにくいものにしてはいないだろうか。
家の歴史をふり返ってみると、雨に打たれて雨もりがしたり、大風に吹かれて屋根がとばされたり、地震にみまわれ傾いたり、又土砂くずれを受けなどしその反省を生かし改良を加えて、それらに耐えるものとして、進歩してきたのだ。それと共に、これらの災害を経験した職人の貴重な体験と、それに対する工法とは、職人の技術と言葉を通じて、代々伝えられ、誠に貴重なものとして残り生かされて来たのだった。しかし昨今のものは機械を重視し、職人の技術を軽視したことが原因となって、造られるものの質を低下させ昔の職人の造ったものには、とても及ばないものになってしまった。ここにもその原因があるようだ。
降幡廣信
【現代の住まいを考える】【002】 耐久力のある民家
信濃毎日新聞掲載のコラムをご覧頂けます。
コチラの記事は過去のものです。